個人の価値についての雑な話

今から何十年か経った未来に、現在いるあまたの有名声優の中から何人かが政界へと進んでいるという光景を想像するのはそう難しい話ではない。タレント候補だ客寄せパンダだと馬鹿にしながら、我々は例えば古谷徹に、例えば田中真弓に、例えば若本規夫に投票することだろう。さらに時代が進めば例えば神谷浩史が、例えば水樹奈々が政治家になるということもあるかもしれない。さてそうなったとして、それをずっと傍流だったオタク文化の主流文化に対しての勝利と呼ぶことができるだろうか。もちろんそうではない。このような現象はただ単に主流がどこに位置を占めるかが変わったというだけの話で、依然として主流になれなかった傍流は主流に置き去りにされ取り残される。俳優やスポーツ選手が政治家になったところで政治に本質的な変化が生じなかったのと同じように、声優が政治家になったところで何かが変わるものでもない。
俳優・声優とその周りを取り囲む事務所等の商売は、俳優・声優それぞれについて個人の経済的価値を最大限に高め、そこから得られる収益を絞れるだけ絞ることで成り立っている。経済的価値のある個人が出演するからテレビ番組に価値が生まれる。経済的価値のある個人が歌っているから歌に価値が生まれる。経済的価値のある個人が使っているから消費財に価値が生まれる。そしてこれらの価値ある経済活動の先導者として振る舞っているから俳優・声優個人に価値が生まれる。特定個人の価値を高められるだけ高めることで無限の経済的価値を生み出そうとするこのシステムは一時の不動産投資にも似た錬金術の様相を呈している。
むろん、この個人の価値を高めるだけ高めることで経済的価値を生み出そうとするシステムに巻き込まれているのは芸能関係者に限った話ではない。富国強兵はまず初等教育の普及によって生産性の高い単純労働者と規格化された兵士を調達することから初めて、高等教育の充実によって競争力の高い官僚・技術者の数を揃えることによって成し遂げられたのだった。近代社会・資本主義経済は生産者としても消費者としてもその構成員である個人個人に対して自らの経済的価値を高められるだけ高めることを常に要請してきたのだし、その要請は現在にあってもなお強固に存在し続けていてむしろその強さを増してすらいる。

第一条 この法律は、武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに(中略)、国全体として万全の態勢を整備し、もって武力攻撃事態等における国民の保護のための措置を的確かつ迅速に実施することを目的とする。

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一般に国防の目的は国民の生命と財産を守ることだとされるのだが、これを財産を守ることが国民の生命・生活を守ることにつながるからだと解釈するのは本末転倒で、むしろ国民の生命・身体こそが国家にとっては財産なのであって、国家にとって国民が重要なのはひとえに国民そのものに経済的価値があるからにほかならない。

総労働力投資法の中にリハビリテーション法508条が含まれることは、労働力として障害者の雇用拡大を行おうとしているという点から重要な政策的決定であると言える。

JEITA

ウィンドウズの視覚障害者対応をはじめ、米国のソフトウェア産業は障害者への利便性向上、アクセシビリティ対応に熱心なのだが、その動機としてはリハビリテーション法508条が政府機関への納入にアクセシビリティ対応を必須条件として掲げていることが大きい。もちろんこれは米国政府が特別に人道的に優れているということを意味するのではなく、リハビリテーション法508条の修正は「総労働力投資法」に含まれる形で行われたのであって、ここで目的とされているのは人権救済ではなく障害者へ向けて労働環境を整備することによる今まで活用されてこなかった労働力の活用であり国力の増強である。*1

生活保護制度の見直しを含めた厚生労働省の「生活支援戦略」の中間報告が明らかになった。受給者の親族に経済的な余裕があれば保護費の返還を求める仕組みのほか、受給者の就労状況を地方自治体が調査できるようにする案を盛り込んだ。不正受給への監視を強め、過去最多を更新する給付の適正化につなげる狙いがある。

:日本経済新聞

しかしここに来て個人の価値を高められるだけ高めることが社会の発展につながるというこの仕組みはいままさに破綻しかかっているようにも見える。社会権生存権は絶対不可侵の基本的人権であるというお題目は小学校の教室でのみ意味を持つ鰯の頭程度の代物にこのまま成り下がってしまうようにも思われる。
平成24年現在、日本人の生涯賃金は平均でおよそ2〜3億で、米価は60kgで1万2千円、金の価格は1kgで400万円強となっている。アフリカ発祥の毛のない猿に過ぎなかった我々が、戦時にあってその命は鴻毛よりも軽く値段は一銭五厘とされた我々が、いまや同じ重さの米の2万倍、金とはほぼ同じ価値を持つとされている。しかしこれは空手形ではないのか。いつか不渡りを出し価値の暴落を見る羽目になるのではないか。やはり人命には地球より重いという言葉はおろか世界に一つだけの花という言葉すら値しない程度の価値しかないのではないか。やはり我々の適正価格は一銭五厘だったのではないか。個人の価値を高めるだけ高めるという商売はあと30年も続かないのではないか。
しかし、こうして心配する一方で私はどこか安心していて、現在のこの、個人の価値を高めるだけ高めることで回転する経済は崩壊せず今後数十年の長きに渡って問題なく作動し続けるのではないかという気もしている。それだけ自らに経済的・社会的価値があると各個人に信じさせる今の社会の支配的イデオロギーは強固なものだし、なにより構成員である我々も大部分はこのイデオロギーを気に入っている。おそらく私のこの、個人の価値がいつか暴落するという心配は杞憂に終わるだろう。そして我々は声優が政治家になる日をこの目で見ることになるし、運がよければその後にまた次の傍流文化が主流の位置に割り込もうとする現場を目撃することすらできるかもしれない。

*1:私は障害者にとって暮らしやすい環境が整備される理由が人道的なものでなく経済的なものであることを非難しない。むしろ経済的に合理化されうるなら弱者への救済が国を挙げて成される社会というのは、感情にまかせて弱者を叩く社会に比べはるかに住みよい社会なのではないかと思う。