「リア充」という言葉はかれらのものになった

駅前にリアルキュゥべえが二匹登場「リア充爆発しろー」って叫んでる #akiba... on Twitpic
もはや「リア充」という言葉は完全にわれわれのものではなくなってしまった。なぜキュウべぇなのか、なぜ秋葉原なのか、そのメッセージは誰に向けられたものなのか、きっと意味なんてないのだろう。いつだってかれらは意味に対してまったく拘泥しない。かれらの手にかかれば「Wikipedia」は「ウィキ」になり、「USBフラッシュメモリ」は「USB」になる。「リア充」という言葉がその起源として「リアル」という単語を抱えていることの意味、そのような言葉をネットではなく物理的な空間で発することの意味、そのどれもかれらにとっては取るに足らない細部なのだろう。
そもそも「リア充爆発しろ」というのがよくなかった。「爆殺する」ならまだ見込みはあっただろう。「爆発しろ」には意思が足りない。言葉をぶつけられた相手が爆発する可能性が感じられない。「爆殺する」とは重みが違う。「リア充」という言葉の急速な陳腐化は「爆発しろ」とセットになった瞬間から始まったのではないかという気すらしてくる。
ただ流行っているというだけの言葉、ただ認知度が高いというだけのキャラクター、ただ人が多いというだけの場所、ただ話題性が高いというだけの日時、まったく噛み合わない雑多な属性を混ぜ合わせた結果として生まれた究極の無意味、「リア充」という言葉がそれを構成するパーツの一つに成り下がってしまっていることに寂しさを感じる。
貧困を理由に人々が団結することはできる。その気になれば革命だって起こせる。だけど団結する相手を持たないことを理由に人々は団結できない。団結してしまったらその瞬間に彼らは団結する理由を失ってしまう。
かつて「おたく」という言葉は人々が団結するための旗印になりえたかもしれない。しかし「キモオタ」という単語が発明され「おたく」の中にあって「キモオタ」でないものが「キモオタ」を踏み台にして団結することに利用された。ある種の社会問題を提起するために導入された「ニート」という言葉は有閑学生の遊び道具になってしまった。
「リア充」という言葉が伴っていた真剣さも広く認知されることと引き替えにされるようにしてどんどん失われていった。もはや「リア充」という言葉はわれわれのものではなくなってしまった。今のこの言葉の役割はかれらが暇を潰すための遊び道具だ。そしてこれからも、われわれが団結のために気の利いた言葉を生み出そうとするたびにかれらはその言葉を奪い去って真剣さを漂白して遊び道具にしてしまうのだろう。
そもそもこの<われわれ/かれら>という概念が自分で使っておきながら嘘臭い。団結する能もない者が一人称複数を使うことからしておこがましい。だから私は「われわれ」という言葉を使うことを極力避けなければならない。私は私のためだけに気の利いた言葉を生み出そうとしなければならないのだし、私のために本当に気の利いた言葉を生み出せるのは私だけだ。一人称複数の獲得に失敗した者は生き残るために一人称単数にしがみつかなければならない。