<皆がありがたがっているものをありがたがること>について(「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」を読んで)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)


物語を読んでいるときに、悪役が説教をされる場面ほど私を動揺させるものはない。利己心や卑怯さ、怠惰、嫉妬心、さらには愛を交わす相手がいないこと*1など、狙いすましたように私が抱える悪徳を各個撃破する作中の人物には気味の悪いものを覚えるし、そのような物語を美談として書き上げるばかりか流通に乗せて利益をあげている人間すらいるという事実に世界を呪いたくなる。

皆がありがたがるものを馬鹿にし、マイナーなものを褒め称える。そのうえ、同類のオタクをバカにする。変に悟った雰囲気を出しながら捻くれた論理を持ち出す。一言で行って嫌な奴だ

「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」にもこのような台詞が表れる場面がある。私にとっては幸運なことにこの場面で主人公は説教をする側ではなくされる側であるし、説教をされた主人公が特に決定的な敗北や屈辱を味わうわけでもない。しかしここで指摘されている事柄、このような特性を備えた人間が「嫌な奴」であるということは事実であるように思う。そして自覚として私は自分がこれらの特性を備えているように感じる。
「皆がありがたがるものを馬鹿に」することが、つきつめるとそのありがたがっている「皆」を馬鹿にすることに還元されるということは知っている。私が「もしドラ」を馬鹿にするときは同時に「もしドラ」をありがたがる有象無象を馬鹿にしているのだし、震災後の自粛ムードを馬鹿にするときは同時に真剣ぶった顔つきで地に足のつかない議論を弄ぶ老若男女を馬鹿にしている。それくらいの自覚はある。
そもそも大勢が同じ方向を向いているという状況が気に入らない性質なのだ。だから現政権に口をそろえて怒りの声とやらをぶつける人びとを見ても何に怒っているのかわからないし薄気味悪いとしか思わない。「意識の高い学生」とやらを見ると虫唾が走るけれど同時に「意識の高い学生」を馬鹿にすることで盛り上がっている人びとを見ても胸糞が悪くなる。生まれてこの方、集団の連帯意識から被った利益を不利益が上回っているのがいけないのかもしれない。小学校の帰りの会では常に告発される側だった記憶がある。
皆がありがたがるものを馬鹿にする人間が「嫌な奴」であるとき、「嫌でない奴」というのはどういう人間であるか。対偶をとれば皆がありがたがるものを馬鹿にしない人間ということになる。そしてむしろこれこそが「嫌でない奴」の定義なのではないだろうか。自分がありがたがっているものを馬鹿にする人間は敵であるし、一緒にありがたがってくれる人間は味方だというルールは筋が通っているし現実にもよくあてはまる。
だから私が「嫌な奴」でなくなりたいと願うのであれば皆がありがたがっているものを馬鹿にせず素直にありがたがるべきなのであろう。しかし今この瞬間から皆がありがたがっているものをありがたがって振る舞うように私がなったとして、私は真に皆がありがたがっているものをありがたがっていると言えるだろうか。
「嫌でない奴」として振る舞うために皆がありがたがっているものをありがたがるということは、<皆がありがたがっているものをありがたがること>をありがたがってはいないからこそできることなのだ。真に皆がありがたがっているものをありがたがっている人は、「嫌でない奴」として振る舞うことを意図してそのようにしているのではない。彼らは心の底から<皆がありがたがっているものをありがたがること>を素晴らしいもの、ありがたいものとして認めている。半ば本能的にそのようにしている彼らを欺き、「嫌でない奴」に見えるよう振る舞うために意図して皆がありあがたがっているものをありがたがるということは、<皆がありがたがっているものをありがたがること>の価値を貶め馬鹿にすること、ひいてはそのようにしている「皆」を馬鹿にすることに繋がるのではないだろうか。
もちろん私はこのような理屈をこねることが「変に悟った雰囲気を出しながら捻くれた論理を持ち出す」ことにほかならないことを知っているし、ここで自分の行動が意味するところを理解しているという素振りを見せることすらそれに含まれることを知っている。
ところで、「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」の物語は特にこの問題に拘泥することなく進展し終結する。むしろ最終場面は<皆がありがたがっているものをありがたがること>を前提にしなければ成立しないようにできている。*2それでもしかし、「嫌な奴」を取り上げておきながら読んでも気分が悪くならないという点においてこの物語は私には価値のあるものだった。材木座というキャラクターの救いようのない描写とそれでも救いがないわけではない終わり方をする5章は特に気に入った。

*1:ところで何かを持っていることではなく持っていないことを道徳的に劣ったものとして規定することが他の事物についてこれだけあけっぴろげになされることがあるだろうか?

*2:読後感を快いものにすることの利点は理解できるが、このような種類の物語が最後を勝利の場面で飾ってしまったのはかなり残念なことだ