「魔法少女まどか☆マギカ」巴マミはバイクの無謀運転で死んだ非行少女

「マミさん、本当に優しい人だったんだ。戦うために、どういう覚悟がいるのか。私たちに思い知らせるために、あの人は…」

魔法少女まどか★マギカ第4話 「奇跡も、魔法も、あるんだよ」

上に掲げたのは「まどかマギカ」第4話において巴マミの死を振り返りながら美樹さやかが口にした台詞*1であるが、これは明白な虚偽である。第3話での死はもちろんマミ自らの選択としてもたらされたものではないし、ましてやマミが魔法少女として戦い続けてきた動機がさやかやまどかに教訓を残すためであるはずがない。この言葉はただマミの無残な死に様を間近で目撃してしまったトラウマをうまく処理できないさやかによる必死の合理化がもたらした詭弁にすぎない。

第3話での描写から判断するに、マミは交通事故で家族を失っており彼女が魔法少女になったのもその事故が大きな理由となっているようだ。そこで思い出されるのが第2話で魔女がもたらす悪影響についてマミがまどか達に解説する場面である。

「魔女の呪いの影響でわりと多いのは、交通事故や傷害事件よね。だから大きな道路や喧嘩が起きそうな歓楽街は、優先的にチェックしないと。あとは、自殺に向いてそうな人気のない場所。」

魔法少女まどか★マギカ第2話 「それはとっても嬉しいなって」

ここでマミははっきりと魔女を悪と見なす根拠の一つとして交通事故を挙げている。マミから家族を奪った事故が魔女によってもたらされたものなのかどうかははっきりとしないのだが、ここから読み取れるのは魔女狩りがマミにとってある種の復讐として機能してきたのではないかということである。第3話で退場したマミに代わって第4話からマミの劣化コピーのごとく振る舞い始めたさやかはしきりにマミの自己犠牲をたたえ杏子の利己主義やほむらの独自行動を批判するのだが、そもそも魔法少女としてマミが戦い続けることを支えてきたのは崇高な自己犠牲の精神などではなく私怨からくる憎悪だったのではないだろうか。むしろ、女子中学生の行動原理としてはそちらの方がはるかに自然であるし、動機が卑近であるほうが視聴者としてもよほど容易に共感できる。

たとえマミが利己的なほむらを批判する一方で自らは私的な執念で動いていたのだとしても、第2話までの戦闘ではそれはまったく問題にならなかった。マミが美少女である一方、第2話まで敵として登場する魔女は見るからに醜い異形の存在だったからだ。その是非はどうあれ、醜悪な外見を持つものを悪と見なし、美しいものを善と見なすような価値観はたしかに存在する。美少女が不気味な怪物を打ち倒す姿はマミ自身の動機がどうであれ人助けのためという建前と不協和を起こすこともなく正義の実現として描かれうる。しかし、第3話の魔女のような、異形であるどころかむしろ「かわいい」と形容されるのがふさわしいような外見の敵を相手にしたときこの構図は崩れ去る。かわいらしい外見の魔女を意気揚々と銃床で殴りつけるマミの姿はむしろ醜悪である。第2話までマミを正義の側に置いてきた論理が今度はマミを悪の側に置く。魔女をいたぶるマミの姿は正義の実現を唱える建前と整合せず、そこにはただ私的な事情に由来する怨念と後輩にいい格好を見せたいという自己顕示欲だけが残る。利己主義を批判しながら大義を失った彼女に残された道は敗北しかなかったのである。

一方で、自己犠牲や公共精神に満ちた優等生的なあり方とはかけ離れた存在としての魔法少女という姿を決定的に示したのが、第5話で本格的に登場するようになった佐倉杏子だ。自己犠牲の精神に毛ほどの価値も認めず意見の対立を力でねじ伏せるそのあり方は、優等生とは対極にある非行少女のようである。そして、キュウべぇの言葉によれば魔法少女の大半は杏子のような性質であるらしい。ならばマミが例外である理由はどこにあるのだろうか。個人的な執念を自己犠牲という建前で覆い隠し暴走したあげく事故死した一人の寂しい少女、それがマミの正しい姿なのではないだろうか。そして、私としてはそのような卑近な人格を持ったマミのほうが、後輩のために自らの命を捧げた聖人としてのマミよりもよほど共感でき、また人間としても魅力的なように思われるのである。

*1:第3話終了後の次回予告でもこの台詞が使われた。