まどかマギカが語る「今とは違う自分」になることとはどのようなことか

鹿目まどか、あなたは自分の人生が貴いと思う?家族や友達を大切にしてる?」
「そう、もしそれが本当なら、今とは違う自分になろうだなんて、絶対に思わないことね。さもなければすべてを失うことになる。」
「あなたは、鹿目まどかのままでいればいい。今まで通り、これからも。」

魔法少女まどか☆マギカ 第1話「夢の中で逢った、ような……」

魔法少女まどか☆マギカ」第1話で暁美ほむらは主人公まどかへこのように語り、以後この「忠告」を守ることをほむらは繰り返しまどかに訴え続ける。「今とは違う自分」になることがなぜどのように「すべてを失う」ことに繋がるのかが語られることはないのだが、ともかく現在のところ物語の中心軸は「今とは違う自分」になること、すなわちまどかが魔法少女になるということを選択するかどうかに据えられているように見える。
魔法少女になるという選択は少なくとも第3話でマミの死を目の当たりにする時点までのまどかにとって、契約と引き換えに何でも好きな願いが叶うという条件に対して魔法少女になること自体で願いは叶うと答えてしまう程度には魅力的だったようだ。

まどかの言動には自らと母とを比較した上での劣等感を訴えるものが目立つ。さやか曰く「美人だしバリキャリ」であるまどかの母は、豪奢な家に家族を住まわせるだけの社会的成功と専業主夫となり自分の仕事人としての生活を支えてくれる夫との円満な家庭を築くという恋愛的成功を完全な形で両立させており、この母の圧倒的な存在がたびたびまどかに卑屈な言動・態度を取らせる。父やまだ幼い弟とともに食卓を囲む団欒のシーンは、まどかの幸福な家族環境を描くためというよりはまどかの母を引き立てるための演出として用意されているような雰囲気さえある。

第1話においても、まどかの母は出かけの挨拶として父と弟には口づけをするがまどかとはハイタッチで済ませるという区別がなされている。「魔女の口づけ」を受けた人々は魔女に操られてしまうという作中のルールから、この口づけがまどかの母によるまどかの家族に対する所有権の表明であると類推するのはいささか強引にすぎるだろうか。
ともかくそのような引け目を感じているまどかの眼には、人を救う力を持つ魔法少女という役割を引き受けることはかなり魅力的に写ったようだ。これはひとえに第3話にして戦死を遂げることになるマミに感化された部分も大きいだろう。まどかにとってマミは英雄であったのだ。

魔法少女の先輩としてのマミがまどかにとっての英雄であったということは、マミの得物が連射の効かないマスケット銃であったこととも結びつけられる。機関銃に代表される連発銃の発明は、戦場で英雄が誕生する可能性の喪失を意味した。第一次世界大戦以降の産業化された自動兵器が吐き出す弾丸の嵐の前には個人の勇気や技能といったものは意味を持たず、むしろ戦況を左右したのは戦線に投入された兵員・弾薬の量や科学技術の質であった。ジョン・エリスが著した「機関銃の社会史」(越智道雄訳、平凡社)には次のようにある。

士官団は、戦場をいまだに個人の英雄的行為の場と考えていた。社会が産業化された時点で、実際には彼らが夢に描いていた戦争は終わりをつげていた。戦争はいまや、ただ単に数の問題であり、個人の英雄的行為、いや部隊の英雄的行為すら、何の意味も持たなかった。*1

だから、人知れず世界を救う英雄である魔法少女の武器として連発銃は不適なのである。代わりに彼女たちが扱うのはマスケット銃であり拳銃であり刀だ。これらの武器が活躍していた近代以前の時代には、まだ個人の勇気が戦場でその真価を発揮するという信念が意味を持っていた。しかし近代においてはそうではない。個人の勇気は空振りに終わり、個性を発揮しようにも人を個人ではなく大衆として数量で把握するのが工業化された近代社会である。

思えば、まどかやさやか、その他大勢の人々がくらす背景として描かれる町並み、学校、病院といった景色は鉄とガラスとコンクリートの巨大な塊として、不自然なまでに近代的・工業的な印象をたたえている。わずかな街路樹や廃墟にはびこる雑草を除けば生活環境の背景に植物が一切描かれないことと比べると、木々に囲まれて佇むまどかの家の様子の方がむしろ不自然にすら見えるほどである。

ほむらが言う「今とは違う自分」になるということは大衆の中に埋もれ個性を踏みにじられる近代的な市民ではなく、過去の時代に存在しえたであろう英雄的な個人になろうとする行為を指すのではないかと私は考える。現在マスメディアを通じて絶え間なく流されている、大衆一般とは違う「なりたい自分」になることの価値を訴えるメッセージ*2は、それ自体がマスメディアを通じて大衆へと送り出されていることをもって矛盾をさらけ出している。大衆一般に開かれた手段を通じて大衆一般とは隔絶した「今とは違うなりたい自分」になることは出来ないのである。真に大衆一般と異なる自分になるためには入り口が制限された手段によるほかない。その手段とは、例えば魔法少女になることである。

「これは自分がなりたいものではないと私は気づきました」と29歳のキョウコは振り返る。「けれどなぜ私自身であることがこんなにも大きい代償を伴うのでしょう?」*3

In Japan, Young Face Generational Roadblocks

しかし、「なりたい自分」であるとか「今とは違う自分」になろうとすることが今の社会では相応の代償を伴うことを我々は知っている。ほむらがほのめかす「すべてを失う」という言葉がどのような結果を指すのかはわからないが、まどかが何を失うことになるのかはこの物語が描こうとするものが何であるかを示す決定的な手がかりになるだろう。また、「今とは違う自分」になることそのものの善悪もこれから問われることになるであろうことは、「魔女狩り」*4という言葉の持つ陰鬱な印象からも感じられる。これもまた作品の持つ意味に深い関わりを持つことは間違いない。

*1:[asin:4582766358:title]、p. 203

*2:例えば「[http://www.u-can.co.jp/cm/2011/cm_gallery.html#shibasaki:title]」には、平凡であることの苦しみを煽り「なりたい自分」になることを奨励するメッセージが溢れている。

*3:原文は “I realized that wasn’t who I wanted to be,” recalled Kyoko, now 29. “But why has being myself cost me so dearly?” 。全文の日本語訳は [http://anond.hatelabo.jp/20110129073446:title] を参照。

*4:第4話のキュウべぇの台詞に「すぐにも他の子が魔女狩りのためにやってくる」とある。