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「魔法少女まどか★マギカ」第3話を見て「鬱展開」とのたまう人々はただのパブロフの犬


|やらおん!
まどかマギカ第3話における巴マミの死を受けて、「鬱展開」「鬱アニメ」といった表現を持ち出す人々が散見されるのだが果たしてそれは形容として正しいものであるだろうか。
「鬱」というのは情動が激しく揺さぶられた結果として生じるものであろう。ここで問題になるのは、マミの死が鬱状態に陥るに足るだけの失意・絶望・喪失感といったものを作中の人物ならぬ視聴者たる我々に呼び起こすということはありえるのかということである。
マミの初登場は1話の終盤であるから退場*1までの総出演時間は1時間にも満たない。登場人物の死によって喪失感が呼び起こされるためには当然それに見合うだけの愛着を視聴者がその人物に抱いていることが必要とされるが、視聴者がマミに愛着を感じるにはあまりにその材料となるものが乏しいと言わざるを得ない。
彼女が視聴者に残した印象として妥当なのは、設定解説役、テンプレ通りの頼れる先輩、調子に乗って戦死した出来の悪い兵士といったところであろう。まどかの家族や入院していたバイオリン少年のような非戦闘員が死ぬことは理不尽として描かれうるが、自らの決断で魔法少女となり戦うことを選んだマミが戦闘の結果として死亡することはそうではない。
むしろマミの死は魔法少女になることが命やその他のもろもろを危険に晒すことの決断を意味するというこの作品の世界観を示すために用意された物語上の機械的な一段階にすぎないのであり、重要に思われた登場人物のおそろしく早い退場に対する驚きであるとか冷酷に過ぎる世界観に対する非難を呼び起こすということはあったとしても、マミという一人の登場人物が死んだことそのものの意味でもって視聴者の情動を揺さぶるということはありえないのである。
むしろ視聴者としては状況説明もなしに第1話、第2話と続けて見せつけられてきたマミによる退屈な対魔女戦に対する不満が少しずつ膨らんできていたところに今回のサプライズがぶつけられてきたのであるからむしろ快哉をすら叫ぶべきであろう。

第3話の冒頭で、戦闘を済ませたマミは街灯の上に出現し、変身を解いてから数メートルの高さから飛び降り危なげなく着地をする。魔法少女として戦闘を重ねることで怪我をすることも命を失うこともあるという脅し文句は戦闘シーンが完全なワンサイドマッチであった第1話・第2話においてはまったく空疎であったし、この第3話冒頭の場面でもわざわざマミが変身を解いた状態での飛び降りを行い高い身体能力を見せつけることで魔法少女は危険とは無縁の存在なのだと視聴者は再度念を押される。だから、第3話後半になってマミが口にする仲間が出来ることの喜びであるとか安心感であるとかいった言葉を視聴者は半ばしらけた状態で聞く。そういった言葉はマミがこれまで魔法少女として危険を重ねてきたのだということを視聴者が想像し共感できなければ効果がないのであり、第3話冒頭での生身での飛び降りによって視聴者はそういった共感を阻害されている。
マミの言葉に対する共感が阻害された状態では、視聴者にはただマミが浮かれているという印象が与えられる。そしてその印象は直後のマミの死によって正しかったことを裏付けられる。
このようにマミという個人に対する共感が阻害された状況で、物語的にも不幸が起きる予感に満ちあふれていた状態でもたらされたマミの死という事態に関する反応として、視聴者が鬱状態に陥るということはよほどのことがなければありえないと言わざるを得ない。
ならばなぜ彼ら、今回のマミの死に関して「鬱」という言葉を使いたがる視聴者たちは現れたのか。それはかれらがそうするよう調教されてきたからである。人が死んだときは悲しんでみせるべきであるという社会通念と、悲しみを表現する語彙の不足が「鬱」という語の安易な使用を促している。であるからかれらが「鬱」という単語を使うとき、彼らの精神に悲しみの感情はおろか何らの情動も生じていなかったとしても驚くにはたらない。彼らが吐く「鬱」という単語は鑑賞したプロットの断片から拾い上げられた悲劇的な要素の合計が一定量を超えたということ以上の何かを意味したりはしないし、それはテレビCMとして流される映画の予告編で繰り返される「泣ける」とか「感動」とかいった言葉と同程度の意味しか持たない。もはや「鬱」という言葉は少なくとも娯楽作品に対する形容として使われたときに意味を持つ言葉では無くなってしまったし、それはただ作品が世間一般で「悲しい」とされる出来事の描写を含むということ以上の情報を持たないのである。

*1:シナリオ次第では次回以降でマミが再登場する可能性もあるが