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ラブプラスは獣的でない性の始祖であり我々の社会の終わりの始まりである

人間は間違いなく動物の一種であるにも関わらず、体臭を放つこと、排便すること、体毛が濃いこと、などなど動物的な要素は今の世の中では否定的に捉えられる。そもそも、日常の会話において獣や畜生といった言葉は侮蔑語として機能する。獣的であるということは醜いことであり、不快なことであり、反社会的なことなのだ。
これら獣的な要素は、体臭は洗浄や香料によって、排便はトイレという個室に押し込めて見ないようにすることによって、体毛は被服や脱毛によって、それぞれ他者によって意識されないよう処理されている。
植物と動物を対比した上で最も獣的だと言える摂食という行為ですら、栄養補給のために必要と思われる範囲を越えて食物を加工することで可能な限りその醜さが表面に出てこないよう工夫がこらされている。高級レストランは獣的な要素が完全に排除された「美しい」摂食体験を顧客に提供する。
今の世の中は、自分たちは獣の一種であるという事実をお互い忘れていられるように全力で努力するよう所属する人々に要請する社会である。その中にあって、性だけが本来の獣的な姿のまま取り残されている。
美しい寝具や凝った照明、科学技術が可能にした各種の避妊手段や大人のおもちゃ、どれだけの人工物を性の現場に持ち込んだところで、グロテスクな性器の形状や抽挿をする男女の姿の滑稽さ、分泌される粘液の醜さは変わらない。であるから我々は性に対して大っぴらに語ることを避ける。誰と誰が性交をしたかについては多く語られるが、性交がどのように始まりどのように遂行されどのように終了したのかはあまり語られない。
しかしいま、我々の社会は性に対して寛容になってきていると言われている。また、もともと日本社会は性に対して慣用であったのが西洋化に伴ってキリスト教的な性意識に感化されただけなのだという言説もある。獣的なままの性というものについて大っぴらに語ることを許す社会とは、性の獣的な性質を意識して見ないことにする社会か、獣的なもの全てに寛容な社会のいずれかであろう。そして、今の世の中は前者の、性の獣的な本質から目をそらす方向へと舵を切っているように感じる。
しかし、獣的なものを許容しないとしておきながら性だけを特権的に扱うそのような態度は果たして万人に指示されうるものだろうか。民主主義、ポストモダン、個性の尊重…。我々はこのような欺瞞にうまく騙されないよう賢く教育されすぎてきてしまった。
そのような文脈の中で、ラブプラスオリエント工業、テンガと言ったここ数年のキーワードは、今まで手つかずであった獣的でない性の提供を行おうという動きの現れなのではないかと思えてくる。
この獣的でない社会の完成を目指す動きは、「本物の」性への関心を奪うという意味で出生率の低下を招き、社会自体を崩壊させるものであるかもしれない。しかし、「ウンコをしないアイドル」と性交を行うことはできないのだ。皆が「ウンコをしないアイドル」と同じ位置を目指そうとする限り獣的でない人工的な性へと向かうこの流れを止めることはできないし、社会の崩壊をさけたいのであれば今再び自らが獣的な存在であるということを皆が見つめる必要がある。