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V-22オスプレイの出自に関する少し興味深い話

The Dream Machine: The Untold History of the Notorious V-22 Osprey

The Dream Machine: The Untold History of the Notorious V-22 Osprey


いま世間を騒がせている話題の軍用機オスプレイについて書かれた本を読んでいたら興味深い記述があったので引用する。

The engineers already had a conceptual design for a tiltrotor about the size of the XV-15, just large enough to hold twelve troops. They wanted marketing to sell that. Dick Spivey told them the Marines didn't care what engineers wanted. The Marines wanted an aircraft that could carry twenty-four troops. Given the limited number of amphibious assault ships in the fleet, the Marines felt they needed an aircraft that size to get enough troops ashore quickly enough in a standard assault. Besides, if they agreed to buy an aircraft that held only twelve troops, others in the Pentagon would surely force them to buy Sikorsky's UH-60 Black Hawk helicopter. The Black Hawk was just that size, already flown by the Army, and would be cheaper than a tiltrotor. After years of cultivating the Marines, Spivey also thought they were loath to buy the same helicopters as the Army because "the more they got like the Army, the more likely they were to be absorbed into the Army."*1

XV-15というのはオスプレイ以前に同機の最大の特徴となっているティルトローター機構について実証を行うために開発された実験機で、ベル社の技術陣はオスプレイを12人の兵士を搭載可能な機体として開発すればXV-15と同じような大きさになるので都合がいいと考えていたのだけど顧客である海兵隊がその倍にあたる24人搭載可能な機体を要望したのでオスプレイは24人搭載可能な機体として開発されることになったという話になっている。
ここでは海兵隊が24人搭載可能な機体を要望した理由とされる事柄が2つあげられていて、ひとつは揚陸艦の数が限られた中で十分な数の兵員を素早く上陸させるためというもので、これはまっとうな理由のように思える。面白いのはもうひとつのほうで、12人搭載可能な機体としては既に陸軍が安価なUH-60を持っていたので、同じような大きさの機体を新しく開発しようとすると代わりにUH-60を使えという横やりが国防総省から入ってきかねないからというもの。しかもさらに面白いことには、海兵隊が陸軍と同じ装備を採用してしまうと海兵隊を独立させておく理由がさらにひとつなくなってしまい、海兵隊を陸軍の下に組み込む口実として利用されてしまうのではないかという懸念も海兵隊側にはあったのだという。
顧客の側の政治的な都合で技術者の合理的な判断が覆されてしまうというのが最近よく見る炎上IT案件の物語にも通じるところがあって面白い。結局、ここで無理して2倍の能力を持つ機体を作ることになったせいで色々と技術的に無理をする羽目になったりしているので技術陣に同情せずにはいられない。その他にも色々な理由で死者が出る事故が起こったり、米国内で猛烈なバッシングにあったりしていて、さらに最近では極東の島国でもバッシングにあったりしていてつくづく不幸な運命を背負った機体なのだなと思う。
この本の結びは軍用機としてオスプレイが成功することで民間機としてもティルトローターの技術を利用する可能性が開けるのではないかという希望を残すものではあるのだけど、それはベル社はじめ航空業界の人たちの都合であって岩国や普天間の人たちには関係ない話だよなという気もする。
私も趣味的にはティルトローター機が飛び回る未来を見てみたいしオスプレイにはそれなりに頑張ってもらいたいとは思うのだけど、国家の安全保障だとか航空技術の未来だとかいった話が基地周辺の人たちの直近の未来になにか利益をもたらすかというとそういうわけではない。都会に住むわれわれがいくらオスプレイが安全だというデータを示したところで事故が起こったとき実際に被害を受けるのはその地方の人たちなわけで、ここで反対しない理由が彼らにはないし、それを不合理な感情論だと笑うのは他人を虐げることに対して少々鈍感がすぎるように思う。

*1:Location 2138, Kindle Edition

個人の価値についての雑な話

今から何十年か経った未来に、現在いるあまたの有名声優の中から何人かが政界へと進んでいるという光景を想像するのはそう難しい話ではない。タレント候補だ客寄せパンダだと馬鹿にしながら、我々は例えば古谷徹に、例えば田中真弓に、例えば若本規夫に投票することだろう。さらに時代が進めば例えば神谷浩史が、例えば水樹奈々が政治家になるということもあるかもしれない。さてそうなったとして、それをずっと傍流だったオタク文化の主流文化に対しての勝利と呼ぶことができるだろうか。もちろんそうではない。このような現象はただ単に主流がどこに位置を占めるかが変わったというだけの話で、依然として主流になれなかった傍流は主流に置き去りにされ取り残される。俳優やスポーツ選手が政治家になったところで政治に本質的な変化が生じなかったのと同じように、声優が政治家になったところで何かが変わるものでもない。
俳優・声優とその周りを取り囲む事務所等の商売は、俳優・声優それぞれについて個人の経済的価値を最大限に高め、そこから得られる収益を絞れるだけ絞ることで成り立っている。経済的価値のある個人が出演するからテレビ番組に価値が生まれる。経済的価値のある個人が歌っているから歌に価値が生まれる。経済的価値のある個人が使っているから消費財に価値が生まれる。そしてこれらの価値ある経済活動の先導者として振る舞っているから俳優・声優個人に価値が生まれる。特定個人の価値を高められるだけ高めることで無限の経済的価値を生み出そうとするこのシステムは一時の不動産投資にも似た錬金術の様相を呈している。
むろん、この個人の価値を高めるだけ高めることで経済的価値を生み出そうとするシステムに巻き込まれているのは芸能関係者に限った話ではない。富国強兵はまず初等教育の普及によって生産性の高い単純労働者と規格化された兵士を調達することから初めて、高等教育の充実によって競争力の高い官僚・技術者の数を揃えることによって成し遂げられたのだった。近代社会・資本主義経済は生産者としても消費者としてもその構成員である個人個人に対して自らの経済的価値を高められるだけ高めることを常に要請してきたのだし、その要請は現在にあってもなお強固に存在し続けていてむしろその強さを増してすらいる。

第一条 この法律は、武力攻撃事態等において武力攻撃から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに(中略)、国全体として万全の態勢を整備し、もって武力攻撃事態等における国民の保護のための措置を的確かつ迅速に実施することを目的とする。

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一般に国防の目的は国民の生命と財産を守ることだとされるのだが、これを財産を守ることが国民の生命・生活を守ることにつながるからだと解釈するのは本末転倒で、むしろ国民の生命・身体こそが国家にとっては財産なのであって、国家にとって国民が重要なのはひとえに国民そのものに経済的価値があるからにほかならない。

総労働力投資法の中にリハビリテーション法508条が含まれることは、労働力として障害者の雇用拡大を行おうとしているという点から重要な政策的決定であると言える。

JEITA

ウィンドウズの視覚障害者対応をはじめ、米国のソフトウェア産業は障害者への利便性向上、アクセシビリティ対応に熱心なのだが、その動機としてはリハビリテーション法508条が政府機関への納入にアクセシビリティ対応を必須条件として掲げていることが大きい。もちろんこれは米国政府が特別に人道的に優れているということを意味するのではなく、リハビリテーション法508条の修正は「総労働力投資法」に含まれる形で行われたのであって、ここで目的とされているのは人権救済ではなく障害者へ向けて労働環境を整備することによる今まで活用されてこなかった労働力の活用であり国力の増強である。*1

生活保護制度の見直しを含めた厚生労働省の「生活支援戦略」の中間報告が明らかになった。受給者の親族に経済的な余裕があれば保護費の返還を求める仕組みのほか、受給者の就労状況を地方自治体が調査できるようにする案を盛り込んだ。不正受給への監視を強め、過去最多を更新する給付の適正化につなげる狙いがある。

:日本経済新聞

しかしここに来て個人の価値を高められるだけ高めることが社会の発展につながるというこの仕組みはいままさに破綻しかかっているようにも見える。社会権生存権は絶対不可侵の基本的人権であるというお題目は小学校の教室でのみ意味を持つ鰯の頭程度の代物にこのまま成り下がってしまうようにも思われる。
平成24年現在、日本人の生涯賃金は平均でおよそ2〜3億で、米価は60kgで1万2千円、金の価格は1kgで400万円強となっている。アフリカ発祥の毛のない猿に過ぎなかった我々が、戦時にあってその命は鴻毛よりも軽く値段は一銭五厘とされた我々が、いまや同じ重さの米の2万倍、金とはほぼ同じ価値を持つとされている。しかしこれは空手形ではないのか。いつか不渡りを出し価値の暴落を見る羽目になるのではないか。やはり人命には地球より重いという言葉はおろか世界に一つだけの花という言葉すら値しない程度の価値しかないのではないか。やはり我々の適正価格は一銭五厘だったのではないか。個人の価値を高めるだけ高めるという商売はあと30年も続かないのではないか。
しかし、こうして心配する一方で私はどこか安心していて、現在のこの、個人の価値を高めるだけ高めることで回転する経済は崩壊せず今後数十年の長きに渡って問題なく作動し続けるのではないかという気もしている。それだけ自らに経済的・社会的価値があると各個人に信じさせる今の社会の支配的イデオロギーは強固なものだし、なにより構成員である我々も大部分はこのイデオロギーを気に入っている。おそらく私のこの、個人の価値がいつか暴落するという心配は杞憂に終わるだろう。そして我々は声優が政治家になる日をこの目で見ることになるし、運がよければその後にまた次の傍流文化が主流の位置に割り込もうとする現場を目撃することすらできるかもしれない。

*1:私は障害者にとって暮らしやすい環境が整備される理由が人道的なものでなく経済的なものであることを非難しない。むしろ経済的に合理化されうるなら弱者への救済が国を挙げて成される社会というのは、感情にまかせて弱者を叩く社会に比べはるかに住みよい社会なのではないかと思う。

「搾取される感じがするものはとにかくもう嫌なんですよ」には耳を傾ける価値がない

「搾取される感じがするものはとにかくもう嫌なんですよ」 - Togetter
公的な空間では許容されない言説がなにかの拍子に表出することに価値があるとするならばそれは標本としての価値に限られる。たとえ日本の大学生の多くが本音では生活保護者の死を願っているということが判明したとしても、それはそのような状況が存在するということの確認の役に立つというだけの話であって間違ってもその言説の内容自体に価値があるということにはならない。彼らが痛みを感じているのだとしてもそれは私には関わり合いのないことであるし、そもそも「本音」とやらを口にすることで彼らは他人の痛みへの共感を否定している。
さらにいえばここで表明されている「本音」とやらもまだ彼らの本音には程遠い。「何ら生産性も無い」、金を稼ぐ能力が無い人間の死を願う一方で自らについては「搾取される感じ」が嫌だと主張する彼ら。「アッパーミドル家庭」に育った自らの地位を維持できないことに憤慨する歪んだ階級意識の持ち主が被害者の顔をしてみせながら加害者として弱者に死を強要することのグロテスクさは注目に値する。
ここで目標とされる社会階層が最上層ではなく「アッパーミドル」であるのは慎ましさから生じたものでは決して無い。下層を足蹴にするという罪と搾取構造の上位にあることを望むという罪の両方を引き受けることへの怯えや、そもそも社会の最上層へ到達する可能性が自らにはない現状への怠惰な追認が目標を上昇から現状維持へと下方修正させているのにすぎない。機会さえ与えられれば彼らはよろこんで搾取構造の上位へと駆け上がるだろう。
金を稼ぐ能力がない人間に生きる価値がないというのなら、搾取構造の上位にのぼることはおろか親の世代から引き継いだ地位すら維持できない人間にもまた生きる価値はない。被害者ぶったことを言う暇があるなら辞世の句でも読めばいい。
自分が一番の被害者であるという状況を作り出すために自分より悲惨な境遇にいる者に怠惰であるとか恥知らずであるといった道徳違反者のレッテルを貼るものに同情を示す必要はない。このような主張に寄り添うことで弱者の境遇が更に悪くなることはあったとしてもその逆は決して起こらないのだし、そもそもこの種の言説は建設的な議論の土台になるような強度を持ち合わせていない。弱者を踏みつけにして自らの地位を維持・向上させたいのなら被害者の顔をするべきではないし、被害者の顔をして同情を集めようというのなら強者はともかく弱者に対して他罰的な態度をとるべきではない。

「リア充」という言葉はかれらのものになった

駅前にリアルキュゥべえが二匹登場「リア充爆発しろー」って叫んでる #akiba... on Twitpic
もはや「リア充」という言葉は完全にわれわれのものではなくなってしまった。なぜキュウべぇなのか、なぜ秋葉原なのか、そのメッセージは誰に向けられたものなのか、きっと意味なんてないのだろう。いつだってかれらは意味に対してまったく拘泥しない。かれらの手にかかれば「Wikipedia」は「ウィキ」になり、「USBフラッシュメモリ」は「USB」になる。「リア充」という言葉がその起源として「リアル」という単語を抱えていることの意味、そのような言葉をネットではなく物理的な空間で発することの意味、そのどれもかれらにとっては取るに足らない細部なのだろう。
そもそも「リア充爆発しろ」というのがよくなかった。「爆殺する」ならまだ見込みはあっただろう。「爆発しろ」には意思が足りない。言葉をぶつけられた相手が爆発する可能性が感じられない。「爆殺する」とは重みが違う。「リア充」という言葉の急速な陳腐化は「爆発しろ」とセットになった瞬間から始まったのではないかという気すらしてくる。
ただ流行っているというだけの言葉、ただ認知度が高いというだけのキャラクター、ただ人が多いというだけの場所、ただ話題性が高いというだけの日時、まったく噛み合わない雑多な属性を混ぜ合わせた結果として生まれた究極の無意味、「リア充」という言葉がそれを構成するパーツの一つに成り下がってしまっていることに寂しさを感じる。
貧困を理由に人々が団結することはできる。その気になれば革命だって起こせる。だけど団結する相手を持たないことを理由に人々は団結できない。団結してしまったらその瞬間に彼らは団結する理由を失ってしまう。
かつて「おたく」という言葉は人々が団結するための旗印になりえたかもしれない。しかし「キモオタ」という単語が発明され「おたく」の中にあって「キモオタ」でないものが「キモオタ」を踏み台にして団結することに利用された。ある種の社会問題を提起するために導入された「ニート」という言葉は有閑学生の遊び道具になってしまった。
「リア充」という言葉が伴っていた真剣さも広く認知されることと引き替えにされるようにしてどんどん失われていった。もはや「リア充」という言葉はわれわれのものではなくなってしまった。今のこの言葉の役割はかれらが暇を潰すための遊び道具だ。そしてこれからも、われわれが団結のために気の利いた言葉を生み出そうとするたびにかれらはその言葉を奪い去って真剣さを漂白して遊び道具にしてしまうのだろう。
そもそもこの<われわれ/かれら>という概念が自分で使っておきながら嘘臭い。団結する能もない者が一人称複数を使うことからしておこがましい。だから私は「われわれ」という言葉を使うことを極力避けなければならない。私は私のためだけに気の利いた言葉を生み出そうとしなければならないのだし、私のために本当に気の利いた言葉を生み出せるのは私だけだ。一人称複数の獲得に失敗した者は生き残るために一人称単数にしがみつかなければならない。

「ザ・インタビューズ」に欲望を刺激された人々が生み出すおぞましい光景

ザ・インタビューズ - 聞かれるなら答えます
ブログやマイクロブログSNSといったサービスはいずれも他人に関心を示されたい、自分が他人に関心を持たれていることを確認したいという人間の欲望を刺激することで人々の認知を獲得していったが、これらのサービスには致命的な欠点があった。ユーザがサービスへの投稿を行うことで得る報酬は他のユーザからもたらされる関心の証、つまりコメントや返信などの他のユーザからもたらされる反応なのであるが、これは当然のことながら報酬を得たいと願うユーザがまず投稿を行ったあとでなければ得られないようになっている。つまり、他のユーザからの反応という報酬が得られるかどうかは自らが投稿を行うまではっきりとわからないのだ。
他のユーザからの反応が得られるかどうかが確実でないということは、反応がまったく得られない可能性があるということである。多くの人は自らの行動がましてや公の場で他人に平然と無視されることに耐えがたい苦痛を覚えるものであるし、内面をさらけ出せばさらけ出すほど無視されたときの苦痛も大きくなるものであるだろうから、ブログやSNSには保身に走った無難な投稿のみを行うユーザあるいは苦痛の感覚が麻痺した一部の先鋭化したユーザしか残らなくなる。
この問題を逆転の発想で解決したのが「ザ・インタビューズ」というサービスである。ここでは他のユーザからの反応が質問という形で投稿に先立って与えられる。つまり、ブログやSNSにおいてユーザが投稿を行うことを阻んでいた他のユーザからの反応が得られるかどうかが不確実であるという問題は質問が投稿された段階で既に解決されているのである。報酬は既に確実に与えられているのであるから、質問に対する回答としてユーザは諸手を振って自己の内面を無遠慮にさらけ出した投稿を行うことが出来る。従来のブログやSNSで他者に無視されることに怯えていたユーザの心理を見事につかんだこのシステムはきわめて巧妙なものだ。
その結果として出現した光景はどのようなものであったろうか。無視されることへの恐怖というくびきから逃れた人びとはこぞって自分について語り出す。好きな食べ物、音楽、恋愛観、他愛のない過去のエピソード、およそ個人に関して言語化が可能なありとあらゆる事柄が記述の対象となる。自らに関する記述を微細化するだけでは満足できない人びとは自らのインタビューページを<インタビューらしく>するために加工済みの写真を所狭しと並べはじめ、自らに関する記述もより<インタビューらしい>文体になるよう改良を加えていく。ここでいう<インタビューらしさ>というのは雑誌などで見られる芸能人・スポーツ選手などへのインタビュー記事に似通った雰囲気というような意味である。多くの人々にとって他者からの関心を多く集める人間のロールモデルは芸能人やスポーツ選手のような種類の有名人であるのだから、他者からの反応に快感を覚える報酬系を最大限に刺激された人びとが迷いなくその模倣を始めようとするのもごく自然なことだ。
こうして「ザ・インタビューズ」はそのような無名の<有名人>の一大カタログと化した。似たような人々が似たような写真を並べた自らのインタビューページに似たような文章を書き連ねていく。無価値な質問と無価値な回答が交互に量産されていく光景はある種圧巻であると同時に滑稽であるし、質問という形式で保証された他者からの関心の表明に刺激された快楽を脇目もふらず貪る人々の姿はもはや猥褻ですらあり、私の目にはあまりにもおぞましく映る。

<皆がありがたがっているものをありがたがること>について(「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」を読んで)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)


物語を読んでいるときに、悪役が説教をされる場面ほど私を動揺させるものはない。利己心や卑怯さ、怠惰、嫉妬心、さらには愛を交わす相手がいないこと*1など、狙いすましたように私が抱える悪徳を各個撃破する作中の人物には気味の悪いものを覚えるし、そのような物語を美談として書き上げるばかりか流通に乗せて利益をあげている人間すらいるという事実に世界を呪いたくなる。

皆がありがたがるものを馬鹿にし、マイナーなものを褒め称える。そのうえ、同類のオタクをバカにする。変に悟った雰囲気を出しながら捻くれた論理を持ち出す。一言で行って嫌な奴だ

「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」にもこのような台詞が表れる場面がある。私にとっては幸運なことにこの場面で主人公は説教をする側ではなくされる側であるし、説教をされた主人公が特に決定的な敗北や屈辱を味わうわけでもない。しかしここで指摘されている事柄、このような特性を備えた人間が「嫌な奴」であるということは事実であるように思う。そして自覚として私は自分がこれらの特性を備えているように感じる。
「皆がありがたがるものを馬鹿に」することが、つきつめるとそのありがたがっている「皆」を馬鹿にすることに還元されるということは知っている。私が「もしドラ」を馬鹿にするときは同時に「もしドラ」をありがたがる有象無象を馬鹿にしているのだし、震災後の自粛ムードを馬鹿にするときは同時に真剣ぶった顔つきで地に足のつかない議論を弄ぶ老若男女を馬鹿にしている。それくらいの自覚はある。
そもそも大勢が同じ方向を向いているという状況が気に入らない性質なのだ。だから現政権に口をそろえて怒りの声とやらをぶつける人びとを見ても何に怒っているのかわからないし薄気味悪いとしか思わない。「意識の高い学生」とやらを見ると虫唾が走るけれど同時に「意識の高い学生」を馬鹿にすることで盛り上がっている人びとを見ても胸糞が悪くなる。生まれてこの方、集団の連帯意識から被った利益を不利益が上回っているのがいけないのかもしれない。小学校の帰りの会では常に告発される側だった記憶がある。
皆がありがたがるものを馬鹿にする人間が「嫌な奴」であるとき、「嫌でない奴」というのはどういう人間であるか。対偶をとれば皆がありがたがるものを馬鹿にしない人間ということになる。そしてむしろこれこそが「嫌でない奴」の定義なのではないだろうか。自分がありがたがっているものを馬鹿にする人間は敵であるし、一緒にありがたがってくれる人間は味方だというルールは筋が通っているし現実にもよくあてはまる。
だから私が「嫌な奴」でなくなりたいと願うのであれば皆がありがたがっているものを馬鹿にせず素直にありがたがるべきなのであろう。しかし今この瞬間から皆がありがたがっているものをありがたがって振る舞うように私がなったとして、私は真に皆がありがたがっているものをありがたがっていると言えるだろうか。
「嫌でない奴」として振る舞うために皆がありがたがっているものをありがたがるということは、<皆がありがたがっているものをありがたがること>をありがたがってはいないからこそできることなのだ。真に皆がありがたがっているものをありがたがっている人は、「嫌でない奴」として振る舞うことを意図してそのようにしているのではない。彼らは心の底から<皆がありがたがっているものをありがたがること>を素晴らしいもの、ありがたいものとして認めている。半ば本能的にそのようにしている彼らを欺き、「嫌でない奴」に見えるよう振る舞うために意図して皆がありあがたがっているものをありがたがるということは、<皆がありがたがっているものをありがたがること>の価値を貶め馬鹿にすること、ひいてはそのようにしている「皆」を馬鹿にすることに繋がるのではないだろうか。
もちろん私はこのような理屈をこねることが「変に悟った雰囲気を出しながら捻くれた論理を持ち出す」ことにほかならないことを知っているし、ここで自分の行動が意味するところを理解しているという素振りを見せることすらそれに含まれることを知っている。
ところで、「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」の物語は特にこの問題に拘泥することなく進展し終結する。むしろ最終場面は<皆がありがたがっているものをありがたがること>を前提にしなければ成立しないようにできている。*2それでもしかし、「嫌な奴」を取り上げておきながら読んでも気分が悪くならないという点においてこの物語は私には価値のあるものだった。材木座というキャラクターの救いようのない描写とそれでも救いがないわけではない終わり方をする5章は特に気に入った。

*1:ところで何かを持っていることではなく持っていないことを道徳的に劣ったものとして規定することが他の事物についてこれだけあけっぴろげになされることがあるだろうか?

*2:読後感を快いものにすることの利点は理解できるが、このような種類の物語が最後を勝利の場面で飾ってしまったのはかなり残念なことだ

「魔法少女まどか☆マギカ」第9話までのまどかを惨めにさせているのは第10話のまどか


「まどかマギカ」第10話において明らかにされたほむらの行動を支える原理、その真意とは時を遡る前の時点でのまどかの願いを叶えること、遡った先の時点でのまどかによるキュウべぇとの契約を阻止することであった。また、まどかが魔女になることでキュウべぇが地球で達成しようとしていた目標に足りるだけのエネルギーが得られるということも同時に明らかにされた。つまり、ここで対立しているのはほむらとキュウべぇであり、争点はまどかがキュウべぇと契約を交わすかどうかである。まどかが魔法少女になることを選べばキュウべぇの勝利であるし、そうしなければほむらの勝利となる。両者の間に妥協の余地はない。

「私にはできなくて、ほむらちゃんにできること、お願いしたいから。ほむらちゃん、過去に戻れるんだよね。こんな終わり方にならないように、歴史を変えられるって言ってたよね」
「うん」
「キュウべぇに騙される前の馬鹿な私を、助けてあげてくれないかな?」
「約束するわ、絶対にあなたを救ってみせる。何度繰り返すことになっても、必ずあなたを守ってみせる」

魔法少女まどか☆マギカ第10話 「もう誰にも頼らない」

「まぁ、後は君たち人類の問題だ。僕らのエネルギー回収ノルマは、おおむね達成できたしね」

魔法少女まどか☆マギカ第10話 「もう誰にも頼らない」

ところで、ここで興味を引くのは争いの焦点となっている当の人物、第9話までの物語の主人公である魔法少女になることをまだ選んでいないまどかの存在感のなさである。第10話の各場面で描かれる、魔法少女としていきいきと活躍し、魔女になることを防ぐため自らのソウルジェムの破壊を願うような勇敢さを見せつけ、転校生であるほむらに対する優しい気づかいも示すまどかの輝かしい姿と比べると、状況に翻弄され少女たちの死に戸惑い悲嘆にくれる第9話までのまどかの姿はあまりに弱々しく惨めに見える。
第9話までのまどかがこのような惨めな姿を視聴者に晒しているのは、ひとえに彼女が魔法少女にならなかったからである。魔法少女としては最強と言われるその素質も、現在のところキュウべぇと契約し魔法少女になる以外の方法で活用する手段が存在するとは思えないのであるから、まどかは魔法少女にならない限り状況に対して自らの意思を示し行動することはできず惨めな姿を晒し続けることになるはずだと考えるのが自然である。つまり、ほむらが第10話のまどかと交わした約束を守ろうとし続ける限り、第9話までのまどかは惨めであり続けるのである。

第10話でほむらに願いを託したまどかは、強大な魔女であるワルプルギスの夜から世界を守りぬいた上で魔女になり世界を滅ぼしてしまうことを防ぐため自らのソウルジェムの破壊を望むという自己犠牲に溢れた英雄的な振る舞いをみせる。その上で彼女はほむらに、遡った先の時点のまどかが魔法少女になることを防ぐよう依頼するのである。ここで起こっているのは、十分に輝かしい人生を送った人間による自分が選ぶことができたかもしれない別の可能性の過去の自分への押し付けであり、その結果として生じた惨めで平凡な人生である。たとえ同じ身体と同じ名前に加えてある時点までの同じ記憶を持っていたとしても、第10話でほむらに願いを託したまどかと第9話まで惨めさを晒し続けてきたまどかとは別人なのである。
だから、この物語の行く末に第9話までのまどかが何らかの形で影響を及ぼそうとするのであれば第一に必要となるのはほむらへの反抗であろうし、ひいては自らは魔法少女として英雄的に生きることを選んでおきながら遡った時点での自分に対して平凡な生を押し付ける第10話のまどかの影響からの脱却が図られなければならないだろう。現状ではほむらの行いは第9話までのまどか自らの意思による魔法少女になろうという決断をことごとく踏みにじるものであるし、ほむらからまどかへの親愛の情の表明も一方的な空回りに終わっている。まどかが惨めさから脱するためにまず立ち向かわなければならないものは魔女でもキュウべぇでもなく、状況に対して能動的に働きかけようとする意思に基づいたまどかの行動のすべてを妨害するほむらの意思であり第10話のまどかの願いなのである。