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ふるさと納税で損をするのは誰か

ふるさと納税に関する記事が続いて目に入ったので少し調べてみようと思った。

ふるさと納税で損をするのは誰なのだろうか。参議院が公開している記事にわかりやすいものがあったので紹介する。

『自己負担なき「寄附」の在り方が問われる「ふるさと納税」』*1がそれだ。特に図表14がわかりやすいので以下に示す。
f:id:mechpencil:20170220235341p:plain
この例では、3万円をふるさと納税して1.2万円相当の返礼品を得たとし、寄付先自治体で発生する事務コストを3千円としている。
この場合、得をしているのはそれぞれ、

そして損をするのは、

ということになっている。

面白いのは、全体の合計がゼロではなく事務コストの分で3千円のマイナスになっているということだ。つまり、ふるさと納税をした人と、国と各自治体を合わせて考えると、ふるさと納税というのは事務コスト分の損を生み出す仕組みになっているのだ。

また、ふるさと納税は直感的には居住地の税収が寄付先に移動するように見えるのだが、実際には居住地の自治体よりも国庫へ与える損害のほうが大きいことにも注目すべきだろう。

返礼品に費やされた1.2万円や、事務コストの3千円のうちいくらかは寄付先自治体の地域経済を潤すのだからいいだろうという反論もあるだろう。しかし高級牛肉などが格安で提供されていること自体が確実に通常の市場での売買に悪影響を与えるものであるし、ふるさと納税の返礼品を提供する業者として選定されることは強い利権となり、その選考過程は汚職の温床となるだろうことは想像に難くない。旧来の公共事業について指摘され続けてきたのと同じ問題を抱えているのである。

最後の「まとめ」に記されている内容も示唆的だ。

また、現在のところ、東京都はふるさと納税に否定的であるとみられるが、仮に東京都が豪華な返礼品によるふるさと納税に本格的に取り組むようになれば、逆に地方から税収を「吸い上げる」ことも不可能ではない。ふるさと納税は、制度上、必ずしも地方圏の自治体に有利に働くとは限らないのである。

『ふるさと納税の現状と課題』*2によれば、そもそもふるさと納税という制度は、平成18年に福井県知事が提案した「納税者が故郷の自治体に寄附を行った場合に、それに見合う税額を所得税と住民税から控除するという制度」をもとに検討を始めたものの、「当初の税収格差是正効果が期待できないと明らかになったにもかかわらず、制度の導入自体を見直すのではなく、はじめに導入ありきでその趣旨・目的のほうを置き換えて議論を進めた」結果、縁もゆかりもない自治体に金を送り嗜好品を受け取る制度に変質してしまったものだ。

都市部と地方の税収格差への対策として、『ふるさと納税の現状と課題』では消費税を地方の財源とし、法人税国税に移す税源交換が有力だとしている。税収格差が問題なのであればそのような本質的な解決策が導入されるべきであるし、国庫に負担を強い、市場原理と地方経済の倫理に悪影響を与え、当初の目的であった都市部と地方の税収格差の解消にも役に立たない欠陥制度であるふるさと納税は段階的に規模を縮小し、最終的に廃止されるべきだろう。

*1:三角政勝. 自己負担なき「寄附」の在り方が問われる「ふるさと納税」― 寄附金税制を利用した自治体支援の現状と課題 ―. 立法と調査 2015. 12 No. 371. 参議院事務局

*2:加藤慶一. ふるさと納税の現状と課題 ―九州における現地調査を踏まえて―. レファレンス 平成22年2月号. 国立国会図書館 調査及び立法考査局

大統領令を支持する国民に迎合する政治を恐れる

書き散らし

www.asahi.com
正規の方法で永住権を取得し、米国で働き米国に家を持ち米国の口座に貯金をしていたイラン人が、たまたま冠婚葬祭や旅行で国外にいただけで3ヶ月、場合によっては永久に自分の家に帰ることが出来なくなるという事態を想像すれば、まともな判断のできる人間ならひどい政策だと思うはずだ。
しかしこのようなまともな判断も、このような政策を支持する側からは、アメリカ風に言えば「リベラル」や「エスタブリッシュメント」の偽善ということになるのであろうし、日本のネットで使われている言葉を使えば「リベサヨ」の欺瞞的な「ポリコレ」談義ということになるのだろう。
エスタブリッシュメント」という表現が具体的に何を指すのかいまだによくわからないのだが、政党政治家、官僚、学者など、いままでの政治がそれなりにまともな判断に基づいて運営されるよう支えてきた層はことごとくトランプ支持者に嫌われているらしい。
アメリカ国民の過半数が「気味の悪い異教徒を国外に追い出せばアメリカは良くなる」という粗雑な考えの持ち主だというのはそれ自体おそろしい話ではあるのだが、もっとおそろしいのは「エスタブリッシュメント」を排除した権力の中枢が、この国民の最も野蛮な部分をなだめるのではなくむしろ煽るような姿勢を取り続けていることだ。

ちぐはぐな合作「シン・ゴジラ」(ネタバレ含)

シン・ゴジラ」について、素晴らしいシーンはいくつかあるが全体的には歪な構成だという感想を持った。以下に詳しく記すがネタバレを嫌う未鑑賞の方は鑑賞後に読むことを薦める。

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「キモくて金のないおっさん」を脅威として認識する「フェミニスト」

「キモくて金のないおっさん」についてのtogetterまとめ*1にはフェミニズムについて言及したツイートは数点しか含まれていないのだが、瞬く間にこの話題はフェミニズムとの関係で、しかも否定的に語られるようになった。*2*3
さらに興味深いことに、「金のない」という言葉は意識的にか無意識的にか最大限緩やかに解釈され、主題は「承認欲求」や「つらさ」といった問題にすり替えられ自己責任論で処理されている。
なぜ「フェミニスト」たちは「キモくて金のないおっさん」という概念をフェミニズムに引き寄せて考え、しかも否定的に語らなければならなかったのだろうか。

フェミニスト」の味方になろうという人間は、当事者である女性を除いても大勢いる一方で、「キモくて金のないおっさん」には味方が存在し得ない。
この点で「フェミニスト」は「キモくて金のないおっさん」に対して圧倒的優位に立っているはずで、本来ならフェミニズムとの関連でわざわざ否定的に語ってみせる必要もないはずだ。
能力のある女性を活用することで経済的な利益を得たい男性経営者であるとか、能力があるにも関わらず社会での活躍を阻まれている女性に同情する、あるいは単に女性の好感を得たい男性であれば、程度の強弱はあれフェミニズムの支持者あるいは潜在的な賛同者になるだろう。
しかし、「キモくて金のないおっさん」にはそもそも金を稼ぐ能力がないのであるから経営者は興味を持たないし、社会で活躍できない状況も自業自得として処理される。
「キモくて金のないおっさん」は定義から異性である女性に対する魅力にも乏しいのであるから、「キモくて金のないおっさん」の好感を得たいという理由で彼らの支持者になる人間は存在しない。

「キモくて金のないおっさん」に同情的な勢力があるとすれば、それは「キモくて金のないおっさん」自身だ。
フェミニスト」が「キモくて金のないおっさん」概念を否定的に語らなければならなかった理由があるとすれば、それは「キモくて金のないおっさん」そのものが「フェミニスト」にとって脅威に映ったからにほかならない。
「キモくて金のないおっさん」という新しい弱者の概念が定着することで、強者である金・権力を持ったおっさんと弱者である金・権力のない女性の対立という単純な構図で物事を語ることが困難になり、男性一般、もっと言えばおっさん一般を仮想敵にした批判といったものが成立しづらくなるという事情もあるだろう。
また、インターネット人口全体の平均年齢が上昇し、社会に低賃金労働者が増えることで「キモくて金のないおっさん」またはその予備軍がインターネット上で数を増やしていること自体について脅威を覚えるという事情もあるのだろう。
「キモくて金のないおっさん」やその予備軍がしばしばフェミニズムに対して好意的な反応を示さないことも加味すればなおさらだ。

しかし、そもそも「キモくて金のないおっさん」概念と男女の不平等を関連させて語る必要があるのだろうか。
「おっさん」と性を限定しているのが問題なら「醜い・同情を得にくい中高年貧困者」と一般化して言い換えればこれは貧困対策・労働問題・社会福祉の問題なのであって、「承認欲求」とか「つらさ」とかいった衣食が足りた先の問題に矮小化するべきではない。
醜い貧困者の話をするより「承認欲求」や「つらさ」の話をした方がインターネット上では人気者になれるという事情があるのは理解できるが、インターネット上での自分の立ち位置を確保するために醜い貧困者が抱える問題を否定してみせる態度は決して褒められるものではないだろう。

掃除機にお胸がありますか?

書き散らし

人工知能学会がその学会誌の表紙に使用したイラストについて問題点の指摘*1が相次いでいる。話題になっているのは人物が箒と本を持って洋間に佇んでいる様子が描かれたもので、服装や長い髪また胸の膨らみなどから人物は女性であり、さらに背中から電源ケーブルがのびていることからイラストに描かれているのは実は人間ではなく女性の形をしたロボットなのだとわかるようになっている。これについて、同学会はブログ上で「今回のデザインは、『日常の中にある人工知能』というコンセプトで、掃除機が人工知能になっていることを表しています」*2と説明している。
そもそも女性型ロボット、あるいは女性型人造人間というものは古来より男性の性的欲求を満たすための道具として物語に描かれ続けてきた。19世紀末にフランスのリラダンが発表した小説「未来のイヴ」は、美しい外見とそれに見合わない凡庸な内面を持つ女に失望した男が、その外見は女に似せつつも内面は自分の願望にかなうものを持った理想の女性として人造人間を作ろうとする物語である。それから120年以上が経過した今日、主人公の性的関心の対象になるよう設定された女性型人造人間というキャラクター類型は確固たる地位を確立し、そのようなキャラクターが登場する小説・アニメ・ゲーム等は枚挙に暇がない。多くの場合、そのようなキャラクターは人間と比べて遜色ない、あるいは人間よりも優れた美貌の持ち主であり、体型についてもある程度以上の大きさの乳房やくびれたウエストなどを持つ性的魅力を備えた存在として描かれる。そしてその中には性交あるいはそれに類する行為を行う能力を持ったものが少なからず含まれるし、実際に人間とそのような行為を行う様子が描写されることも珍しくない。
ところが、件の女性型ロボットについて人工知能学会は「掃除機が人工知能に」なった姿だと説明する。女性型人造人間というキャラクター類型について積み上げられてきた性的な属性・文脈の一切がここでは無視されている。自律化された掃除機なら現在でも家電量販店に行けば購入できるが、店頭に並ぶロボット掃除機はどれも地を這う円盤とでも呼ぶべき代物であり人間とはかけ離れた形状をしている。単純に掃除をするためのロボットなら人間型である必要はないのだし、たとえ人間を模した姿のロボットが家事を担う必要が生じたとしても人間のような質感の肌や大きな乳房はまったく無用なのである。現在一般に入手可能な耐久消費財で、触りごこちのよい肌と扇情的な体型を持つ人間の女性をかたどった製品として一般に思い浮かぶのは掃除機ではなくダッチワイフあるいはラブドールと呼ばれるシリコン製の人形であろう。問題となったイラストに描かれているのは進歩したロボット技術が投入された未来のラブドールだと受け取るのが自然なのであって、ロボット掃除機の進化した姿だとする同学会の説明はいかにも後から取って付けたものという印象で滑稽ですらある。
ではなぜ人工知能学会は「掃除機が人工知能になっていることを表しています」などという説得力に乏しい主張をしなければならなかったのか。部外者の私には推測することしかできないが、例えば「ロボット化されたラブドールが家事から夜の相手までしてくれるようになった未来を描いたイラストです」などという説明をする勇気が彼らにはなかったということなのではないだろうか。なるほど学会誌の表紙イラストに描かれているのが未来のダッチワイフだというのは不道徳な感じがするし体面も悪い、内外から激烈な批判も予想されるだろうし建前だけでも無難なものにしておこうという理屈はわからないでもない。しかしそのような逃げを打つのであれば初めからこのようなイラストを採用するべきではなかった。同学会はブログ上で問題のイラストについて「挑戦的」という表現を使っているが、真に挑戦的な態度を取りたかったのであれば生身の女性と遜色ない外見を持つロボットが社会に普及することでどのように人々の生活が改善されるかを主張すべきであった。例えば家事から性欲の処理までをこなせる女性型ロボットが月給数ヶ月分の価格で入手できる時代が到来したとして、そのことでどれだけの数の人々が幸福になり、自殺・性犯罪・その他諸々の社会不安が軽減されるかという未来像を提示するべきであった。
性的な文脈を想起させるイラストを使用することについて批判が予想されるのであれば批判を甘んじて受けつつそれでも自らの意図を丁寧に主張するべきだったし、それを避けたいのであれば代わりに無難なものを選ぶべきだった。これは掃除機であるなどという白々しい主張は予想される批判をかわすこともできない上に「挑戦的」という自画自賛に見合うだけの外部からの賞賛も得られないという点において策としては最悪の部類といえる。

細谷雄一「外交」(有斐閣)、広瀬健夫「住んでみたカムチャツカ」(東洋書店)

読んだ

細谷雄一「外交」(有斐閣

外交 (有斐閣Insight)

外交 (有斐閣Insight)


「外交」という曖昧な概念について、まず感情的な世論や任期の限られた政治家などの国内の政治要因に左右されやすい「対外政策」と専門の官僚がある程度の独立性と一貫性を保って行う「交渉」とを分けて考えることからはじめ、過去の大家による「外交」の定義の紹介、古代ギリシャにまで遡っての外交技術の発展の歴史と続く構成になっていて興味を持って読めた。
特に、近代的な外交技術がヨーロッパで発達したのは同じような規模で文化的にもある程度同質な国家が多く共存する環境だったからで、ローマ帝国に見られたような帝国的秩序が存在する場合には複雑な交渉は不要なので外交技術は発達しにくくなるという話は中華帝国を中心とした秩序の下にあった東アジアにも通じるということもあり面白い。さらに同質的なヨーロッパ外交の世界にアメリカ・日本・ソ連といった異質な国々が参加することで変化が生じていく様子や世界大戦・冷戦を通じての変化などについても触れられている。
フランス人思想家トクヴィルの言葉を引いて民主主義と外交について述べた部分には

「外交政策には民主政治に固有の資質はほとんど何一つ必要でなく、逆にそれに欠けている資質はほとんどすべて育てることを要求される」。というのも、「民主政治は国家の内部の力を増すには好都合である」けれども、「一国民の他国民に対する立場には間接的な影響しか持た」ず、さらに「大事業の細部を調整し、計画を見失わず、障害を押して断固としてその実現を図るということになると、民主政治はこれを容易にはなしえまい」

とあり、相手国と自国双方の利益のためにうまく妥協して交渉をまとめようとする外交官と「弱腰外交」を感情的に批判する世論のギャップという問題は戦前から認められていたものなのかと変に感心した。

広瀬健夫「住んでみたカムチャツカ」(東洋書店

住んでみたカムチャツカ (ユーラシア・ブックレット)

住んでみたカムチャツカ (ユーラシア・ブックレット)


カムチャッカの地理、生活、歴史などについてそれぞれ軽く触れていて、筆者が勤務していた大学の日本語科の学科長が自分より日本語がうまいロシア人を採用しないという話まで書かれてて面白い。
歴史についての記述に

日露開戦の知らせはトナカイと犬橇を使って、三ヶ月後の五月五日にペトロパブロフスクについた。

というのがあって、当時の僻地ではどういう感覚で時間が流れていたのか想像させられて楽しい。

V-22オスプレイの出自に関する少し興味深い話

書き散らし

The Dream Machine: The Untold History of the Notorious V-22 Osprey

The Dream Machine: The Untold History of the Notorious V-22 Osprey


いま世間を騒がせている話題の軍用機オスプレイについて書かれた本を読んでいたら興味深い記述があったので引用する。

The engineers already had a conceptual design for a tiltrotor about the size of the XV-15, just large enough to hold twelve troops. They wanted marketing to sell that. Dick Spivey told them the Marines didn't care what engineers wanted. The Marines wanted an aircraft that could carry twenty-four troops. Given the limited number of amphibious assault ships in the fleet, the Marines felt they needed an aircraft that size to get enough troops ashore quickly enough in a standard assault. Besides, if they agreed to buy an aircraft that held only twelve troops, others in the Pentagon would surely force them to buy Sikorsky's UH-60 Black Hawk helicopter. The Black Hawk was just that size, already flown by the Army, and would be cheaper than a tiltrotor. After years of cultivating the Marines, Spivey also thought they were loath to buy the same helicopters as the Army because "the more they got like the Army, the more likely they were to be absorbed into the Army."*1

XV-15というのはオスプレイ以前に同機の最大の特徴となっているティルトローター機構について実証を行うために開発された実験機で、ベル社の技術陣はオスプレイを12人の兵士を搭載可能な機体として開発すればXV-15と同じような大きさになるので都合がいいと考えていたのだけど顧客である海兵隊がその倍にあたる24人搭載可能な機体を要望したのでオスプレイは24人搭載可能な機体として開発されることになったという話になっている。
ここでは海兵隊が24人搭載可能な機体を要望した理由とされる事柄が2つあげられていて、ひとつは揚陸艦の数が限られた中で十分な数の兵員を素早く上陸させるためというもので、これはまっとうな理由のように思える。面白いのはもうひとつのほうで、12人搭載可能な機体としては既に陸軍が安価なUH-60を持っていたので、同じような大きさの機体を新しく開発しようとすると代わりにUH-60を使えという横やりが国防総省から入ってきかねないからというもの。しかもさらに面白いことには、海兵隊が陸軍と同じ装備を採用してしまうと海兵隊を独立させておく理由がさらにひとつなくなってしまい、海兵隊を陸軍の下に組み込む口実として利用されてしまうのではないかという懸念も海兵隊側にはあったのだという。
顧客の側の政治的な都合で技術者の合理的な判断が覆されてしまうというのが最近よく見る炎上IT案件の物語にも通じるところがあって面白い。結局、ここで無理して2倍の能力を持つ機体を作ることになったせいで色々と技術的に無理をする羽目になったりしているので技術陣に同情せずにはいられない。その他にも色々な理由で死者が出る事故が起こったり、米国内で猛烈なバッシングにあったりしていて、さらに最近では極東の島国でもバッシングにあったりしていてつくづく不幸な運命を背負った機体なのだなと思う。
この本の結びは軍用機としてオスプレイが成功することで民間機としてもティルトローターの技術を利用する可能性が開けるのではないかという希望を残すものではあるのだけど、それはベル社はじめ航空業界の人たちの都合であって岩国や普天間の人たちには関係ない話だよなという気もする。
私も趣味的にはティルトローター機が飛び回る未来を見てみたいしオスプレイにはそれなりに頑張ってもらいたいとは思うのだけど、国家の安全保障だとか航空技術の未来だとかいった話が基地周辺の人たちの直近の未来になにか利益をもたらすかというとそういうわけではない。都会に住むわれわれがいくらオスプレイが安全だというデータを示したところで事故が起こったとき実際に被害を受けるのはその地方の人たちなわけで、ここで反対しない理由が彼らにはないし、それを不合理な感情論だと笑うのは他人を虐げることに対して少々鈍感がすぎるように思う。

*1:Location 2138, Kindle Edition